とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木ほぎ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。
しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自治体は、それぞれの大義名分のもとで、競うように染井吉野を植樹したのです。阿部菜穂子さんによれば、成長が早く経済的なこのサクラは、戦後の荒廃からいた早く立ち直ろうとした「新生日本」のシンボルとして、改めて都合よく使われたのです。
とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木ほぎ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。
しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自治体は、それぞれの大義名分のもとで、競うように染井吉野を植樹したのです。阿部菜穂子さんによれば、成長が早く経済的なこのサクラは、戦後の荒廃からいた早く立ち直ろうとした「新生日本」のシンボルとして、改めて都合よく使われたのです。
イングラムはサクラの美に魅入られたイギリスの園芸家で、「チェリー・イングラム」という愛称を捧げられたほどでした。1926年、再び日本にやってきたイングラムは、日本人の関心が派手なサクラに向けられ、珍しい品種はないがしろにされて、本来の多種多様性が消滅しかかっている日本のサクラに危機感を募らせました。
彼はケント州ベネンドンにある自分の邸宅「ザ・グレンジ」に帰ると、そこに庭園「桜の園」を開き、みずから多種多様なサクラを育て始めたのです。「将来日本人は、もっとも美しいサクラをヨーロッパやアメリカで再発見することになるだろう」という、シニカルで切実な思いに駆られながら……。
しかし天王寺のオカメザクラだけは、満面の笑みで僕たちを迎えてくれました。ブータン博士によると、オカメザクラはイギリスのコリングウッド・イングラムという園芸家が、カンヒザクラとマメザクラから作った交配種で、これがわが国へもたらされたそうです。
ブータン博士の話を聞き、オカメザクラを眺めているうちに、かつて朝日新聞の記事で知って求めながら、ツンドクのままになっている一冊の本を思い出しました。帰宅して書庫の奥から引っ張り出した阿部菜穂子さんの『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』(岩波書店 2016年)がその本です。
3月23日ブータン博士花見会が行なわれました。ブータン博士花見会? 日比谷高校昭和37年(1962)卒業生のうち、桜ファンが集まってブータン博士の解説を聞き、そのあと飲み会に流れるという集まりです。ブータン博士? 田中潔君のニックネームです。田中君は植物学のスペシャリストですが、どうしてブータンと呼ばれるようになったのか、よく知りません。「饒舌館長」は自分から言い出したブログネームですが……(笑)
この花見会はずいぶん長く続いているそうですが、僕は去年の新宿御苑に続いて2回目の参加です。今年は谷中霊園が選ばれましたが、春まだ浅く、園内満開とはいきませんでした。
僕も15年ほど前から、審査員としてお手伝いさせてもらってきました。この間、町田泰宣さん、潮見冲天さん、堀江春美さんをはじめ、院の方々には大変お世話になり、楽しく勉強させてもらってきました。
日本南画院展の最高賞は文部科学大臣賞で、今回は森川節夫さんの「戒め」が受賞しました。これに次ぐのが竹田賞で、もちろん田能村竹田にちなむ賞です。尊敬して止まない田能村竹田――その竹田賞を選考するというのですから、さすがの饒舌館長も緊張しないはずはありません(笑) 今回、竹田賞は渡辺天弓さんの「時経て」に決まりました。お二人をはじめ、受賞された方々に、心からの祝辞を捧げたいと存じます。
なお「饒舌館長ブログ」では、幽明界を異にされた方のみ「先生」とし、お元気な方はひとしなみに「さん」とお呼びすることにしています。
そうなんです!! 南画あるいは南宗画というより、今や広く水墨画の美術団体と考えた方がよいでしょう。ご興味のある方は、ぜひ日本南画院のホームページをご覧ください。
畏友・村田隆志さんは、近代南画のもっとも意欲的な研究者です。その村田さんは「『日本南画院設立記念冊』に見る戦後の南画壇の動向」と題する興味深い論文を、大阪国際大学の『国際研究論叢』35号(2022年)に発表しています。かつて大学紀要は入手するのがなかなか大変でしたが、この村田論文も今やネットで簡単単に読めるんです!! 近い将来、村田さんはこれをもとに日本南画院の歴史をまとめてくれることでしょう。
太平洋戦争のあと、南画はかつての輝きをやや失っていましたが、昭和35年(1960)5月、京都において先の松林桂月、矢野橋村、河野秋邨を中心に、日本南画院が改めて結成されました。
この南画院ははじめ社団法人として出発しましたが、現在は公益社団法人として、公募展形式をとりながら、多くの方々に南画創作の楽しみを味わっていただくべく、活動を続けています。もっとも、紹介パンフレットには、「百年以上の歴史を通し、日本南画院は手法的にも日本風土並びに世界各国の風土の中より多くの素材を求めながら、東洋美術の精粋と言われる水墨画の研究に努力しております」とあります。
とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...