投稿

五山文学の春10

絶海中津「春雨 羊の字を得たり」(『蕉堅藁』№108)   軒から春の涙雨 花の香りも相ともに……   大きな雨音意地悪く 寝ている俺の邪魔をする   灯下に読書終えし時 古人の悲嘆よみがえる   子供を煮出したスープだと 楽羊に告ぐ送り状
 「楽羊」については、入矢先生の脚注をそのまま引用することにしましょう。戦国時代の魏の文侯は将軍の文侯に命じて中山を伐たせた。中山君は国内にいた楽羊の子を煮殺して作ったスープを楽羊に送りつけた。楽羊はそれを一口すすったという(戦国策・魏策)。「一篋の飛書」とは、そのスープに添付されてきた送り状――だそうです。なお「中山」とは、そのころ白狄族が今の河北省に建て、紀元前407年、魏に滅ぼされた小侯国です。

五山文学の春9

絶海中津「永徳壬戌の春、松間居士の枕流亭の諸作を拝観す。前韻を追和して、楮尾に贅すと云ふ」(『蕉堅藁』№95)   流れの水も松風も 昼夜分かたず清々し   盧生みたいにちょっとだけ ウトウトしてたら目が覚めた   銘木茂るかの平泉[へいせん] 樵夫[きこり]みたいな俺知らず  しかしこの画を見ていたら そこに遊んだ気になった
 永徳2年(1382)の春に読まれた七言絶句です。このころ絶海は甲斐の慧林寺の住持でした。松間居士が誰かは判らないそうですが、その枕流亭を描いた画巻を見せてもらったところ、松間居士みずから題した詩がありました。そこで絶海は、その詩に和して――つまりその脚韻を踏襲しながらこの七言絶句を作り、巻末に書き足したというわけです。
「邯鄲一炊」は、唐の小説『枕中記』に出る有名な逸話ですね。官吏登用試験に落第した盧生という青年は、趙の邯鄲で、道士呂翁から枕を借ります。それは何でもいい夢が見られるという不思議な枕でした。
盧生がその枕で眠りに落ちると、トントン拍子に出世して、大富豪になりましたが、目覚めると枕辺の黄粱がまだ煮えていないほど短い間の夢であったという故事です。人生における立身出世ははかなく、栄枯盛衰に一喜一憂するのは馬鹿げたことだと教えてくれるのです。なお「平泉」は、唐のすぐれた政治家で、日本からの留学僧・円仁とも接点をもった李徳裕が造営した壮大な庭園だそうです。

五山文学の春8

絶海中津「花下に客を留む」(№91)   友 遠方より…… うれしいなぁ! 一晩語り明かしたい!!
  むしろを敷いた花のもと 座りゃ香りを運ぶ風   散ってしまった明日の朝 友が帰ったそのあとで   門や小道の紅い花 いったい誰が掃くのやら

五山文学の春7

もっとも、荘子の生没年は判りません。しかし、宋玉より早い時代の思想家であることは確かですから、宋玉が登場してからおかしくなってしまったというのは、ちょっと矛盾しています。しかし、何といっても聖人の荘子ですから、永遠の命を与えられているのでしょう。あるいは、荘子はちょっと思い出されただけで、モチーフはあくまで蝶々だからかもしれません。
宋玉が「雲雨の情」なんて言い出すものだから、雲が浮かんでいる朝や、雨が降る夕方には、ちょっと恋心がわいてしまって、以前のごとく無邪気には遊べなくなってしまった――絶海中津はこれを「愁い」だとみたのです。
「春夢」は一義的に「春の夜の夢」であり、物事のはかなさのたとえですが、「春情」や「春画」、あるいは「春機」や「春宮」の「春」と通いあうニュアンスも読み取りたい誘惑に駆られます。いずれにせよ、絶海中津は『高唐賦』が偽託の詩賦であることなど、それこそ夢にも思わなかったことでしょう!?

五山文学の春6

表立って詠われなくても、当然二匹は番[ツガイ]の雌雄のように認識されていたのではないでしょうか。そうだとすれば、ほとんどストレートに後半へつながっていくことになります。
この詩の基底をなすのは、荘子が夢で胡蝶になって楽しみ、自分と蝶の区別を忘れたという故事です。それを指す「蝶夢」という言葉と、「春夢」という言葉が美しく共鳴しています。
それはともかく、『荘子』において、とくに二匹で遊んだとあるわけではありませんから、おそらくその後に生まれた蝶といえば二匹のツガイという観念が、「春夢」の大切なポイントになっているように思われます。

奈良国立博物館「快慶展」11

そんなことはないと思います。ほんのわずかな中国旅行の体験からいえば、路傍の小僧地蔵を見たことは一回もありません。しかし日本では、涎掛けをつけられ、帽子を被らされた小僧地蔵を容易に目にすることができます。事実、我が家の近くの三角公園にも鎮座ましましています。これまた清水さんによると、政教分離を原則とする我が国でも、公有地にお地蔵さんをまつることは合憲とされているそうです。
これほどまでに我が国では、地蔵信仰――とくに小僧地蔵信仰が広く行きわたっているのです。たとえ地蔵信仰や小僧地蔵信仰のオリジンが中国にあるとしても、その普及は日本独特の宗教現象だといってよいでしょう。もしそうだとすれば、やはりこれは日本文化を考える際のヒントとなりそうです。そこには日本人の子供を純真無垢なるものと見なす観念が大きく働いていた――これが私見です。
幕末明治のころ、わが国へやって来た西欧人がひとしなみに驚いたような、子供を聖なるものとする考え方です。前のブログに、日本における不動信仰流行の基底には、子供聖性観があった可能性を考えてみたいとアップしたことがあります。
地蔵信仰、とくに小僧地蔵の誕生と普遍化にも、同じような背景があるのではないでしょうか。日本における仏教と子供聖性観の強い結びつきは、坊主という言葉が僧侶を指すと同時に、男の子を指すという事実にも、象徴されているのです!?

奈良国立博物館「快慶展」10

地蔵菩薩は釈迦の入滅後、弥勒仏が出現するまでのあいだ、無仏の世界にあって衆生を教化救済するという菩薩です。言うまでもなくインドで生まれ、中国を通して我が国へ伝えられた仏さんであり、成人として造形されるのが常でした。それが我が国で小僧姿の地蔵――小僧地蔵になって流布したことには、日本文化のある性格を見出すことができるのではないでしょうか。
もっとも、ネット検索で知ったのですが、清水邦彦さんという方の神奈川大学博士論文「日本に於ける地蔵信仰の展開――祖師から民衆まで」によると、中国にも小僧地蔵は存在するそうです。しかし、たとえそれが我が国の小僧地蔵と関係するとしても、中国でも日本と同じように小僧地蔵が愛好され、一般化しているのでしょうか。