2018年1月22日月曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」1


静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」<325日まで>(120日)

 いよいよ今日から企画展の「歌川国貞展」です。僕にとって国貞つまり三代豊国といえば、まず思い出されるのは、小樽のすし屋通りです。というのは、ちょうど10年前、小樽市総合博物館で、「誠忠義士伝――三代豊国の世界」という特別展が開催されました。

赤穂義士物といえば、何といっても歌川国芳ですが、国貞にも「誠忠義士伝」という54枚の揃い物があります。小樽市総合博物館で所蔵する完全揃いのすべてが公開されるという、少なくとも北海道では新聞にも取り上げられた話題の特別展でした。

在ニュージーランド日本美術調査以来、親しくさせてもらってきた土屋周三館長から講演の依頼を受けた僕は、「浮世絵の美――三代豊国と後期浮世絵」と題して、私見を披露することにしました。

それはともかく、僕は「誠忠義士伝」の昨日摺ったような鮮やかな色彩、超絶技巧ともいうべき彫摺の冴え、シリーズとしての張り詰めたような統一感にすっかり魅了されてしまいました。それまでにも、三代豊国の作品は何度か見ていたわけですが、こんな大シリーズをまとめて見たのは初めてでした。僭越ながら、三代豊国を見直したのです。

2018年1月21日日曜日

千利休と茶の湯6



これを認めた上でなお、我が国の茶の湯に、滅びてしまった中国の古い喫茶文化が大切に守り伝えられていることは、何と興味深いことであろうか。茶を粉末にした抹茶は唐代に起こり、宋代に盛んになった。宋の時代、大きく分けて茶には片茶と散茶があったという。

片茶とは固形茶であり、散茶には葉茶と抹茶が含まれるが、散茶、とくに抹茶が愛好されるようになり、これが宋代の茶を特徴づけることになる。ところが明代に入ると、太祖洪武帝の命を機に、茶葉を煎じて飲む煎茶が流行し、抹茶はほとんど命脈を絶たれてしまう。

一方、我が国では唐宋の茶ともいうべき抹茶が絶えることなく支持されてきた。煎茶は江戸時代に文人の間で流行を見たが、それでも抹茶を用いる茶の湯は広く愛され、現代に至るまで日本文化の一翼を担ってきた。

2018年1月20日土曜日

千利休と茶の湯5


このような書院会所の茶に革命的改変をもたらしたのが、一休宗純に参禅した村田珠光であった。内省的心情や閑寂を最も重視する茶の湯は、余りにも有名な『心の文』に見る「和漢の界を紛らかす」という思想に具体化されている。これを道具に限れば、完璧なる唐物に対し、不完全な和物、つまり人間的な和物を尊重することになる。茶禅一味の思想が内実化されたと言ってもよいであろう。

茶の湯は珠光の弟子たちや、孫弟子ともいうべき武野紹鴎、さらに京都、堺、奈良の茶人たちによって磨きをかけられ、遂に紹鴎の弟子千利休が侘茶を完成することになる。この簡素静寂の境地に最高の美を見出そうとする侘茶は、利休が行き着いた二畳の茶室妙喜庵待庵に視覚化されている。これこそ日本の茶の湯であると誇ってよいであろう。

源泉は中国にあるわけだが、ほとんど我が国独自の文化に変容していると言っても過言ではない。弥生時代以来、我々は中国文化を受け入れ、それを我が国の自然と精神風土の中で日本化をはかり、オリジンとは異なる文化を創り出してきたのだが、茶の湯も例外ではありえない。

2018年1月19日金曜日

千利休と茶の湯4


初め抹茶は薬用とされたようだが、そのもとになった中国では、早く禅宗と結びついていたために、我が国でも禅宗寺院における茶礼として発展することになった。茶禅一味という思想がその基底を支えていた。

ところが、鎌倉末期から南北朝時代に入ると、抹茶は禅林を飛び出す。幕府を中心とする政治権力との結びつきを強めて書院会所の茶となり、これが室町時代へと受け継がれる。中国から輸入された美的道具類――唐物を賞玩する唐物趣味のうちに抹茶も組み込まれたのだが、唐物を所有するのは権力者であった。唐物が権力を担保した。ここに茶の湯は政治的かつ経済的効用を強めることになった。

もっとも、この時代を代表する足利義満が、太政大臣にして征夷大将軍という名実伴う権力者であるとともに、天山道有と号する禅僧であった事実に象徴されるごとく、宮廷と幕府と禅林は結びついていたという方が正しいかもしれない。

2018年1月18日木曜日

千利休と茶の湯3


ツバキ科の常緑低木である茶の木は、中国南部の四川、貴州、雲南など、霧の多い地域の原産である。その地方では紀元前後すでに飲茶の習慣が生まれており、これが茶道の原点であるとされるが、強い反対論があるのはおもしろい。やがて唐の時代を迎えると、喫茶の風習は大いに流行し、都の長安では喫茶店が賑わいを見せ、寺院では座禅を眠気から守るために茶を飲むことが行なわれるようになったという。

そのような喫茶流行の中から、陸羽の『茶経』が誕生したのである。この風習は遣唐使によって我が国にもたらされ、奈良・平安時代を通して宮廷貴紳の間に少しずつ広まっていった。

しかしこれが特に盛んになったのは、鎌倉時代に入ってからであって、その功績は栄西に帰せられる。栄西は中国から茶種か茶苗を持ち帰ったといわれるが、その前に最澄が携えてきたようであるから、むしろ栄西は抹茶法を伝えた恩人として記憶されるべきであろう。それ以前は茶葉を団子状に固めた団茶などが中心であったから、栄西による抹茶の請来が、我が国茶の湯文化を生み、発展させたと言っても過言ではないだろう。

2018年1月17日水曜日

千利休と茶の湯2


 茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである――と岡倉天心は喝破した。一九〇六年(明治三九年)、英文で『茶の本』を著わした天心は、その本質を「不完全なもの」を崇拝することに見出し、人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てだと規定した。

侘び茶の大成者千利休がまとめたと伝えられる利休百則にある「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて呑むばかりなり」という一条が茶道の根本であったとしても、天心はそこに哲学的あるいは近代的解釈を施して、欧米の知識人に茶道を理解せしめようと試みたのである。

いや、茶道を通して東洋を理解せしめようとしたと言った方が正しいであろう。近代的西欧思想の洗礼を受け、その信者として育ってきた我々も、天心を通して茶道を理解することになる。

2018年1月16日火曜日

千利休と茶の湯1

 昨秋出版された『國華』1463号は、「千利休と茶の湯」という特集号でした。この分野の研究をリードする熊倉功夫さんに編集をお願いした結果、素晴らしい内容の特集号に仕上がりました。改めて一読をお勧めしたいと思います。
 編集担当となった僕は、「特集にあたって」という巻頭言を書かなければならないハメになったので、グッドチャンスだと思い、茶の湯私感を披露することにしました。小林主幹からは、「アンタのはいつも長すぎるよ」と言われているのですが、つねに内容の紹介というより、私見の紹介ということになっちゃうので、どうしても長くなっちゃうんです(!?) お許しくださいませ。
 裏表2ページを使いましたが、それでもちょっと欲求不満で、厚かましくもさらにちょっと加筆したものをこの「饒舌館長」に紹介させていただきたく、よろしくお願い申し上げます(笑) 特集号の詳しい内容は、[国華]で検索するとHPが出てきますので、そちらでチェックしてくださいね。

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」1

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」< 3 月 25 日まで>( 1 月 20 日)  いよいよ今日から企画展の「歌川国貞展」です。僕にとって国貞つまり三代豊国といえば、まず思い出されるのは、小樽のすし屋通りです。というのは、ちょうど 10 年前、小樽市総合博物館で、「誠...