2017年8月21日月曜日

天羽直之さんと百目鬼恭三郎4


しかし感心はしつつも、そうかいなぁ?と思ったのは、僕がつねづねお世話になっている小学館版『日本国語大辞典』と諸橋轍次の『大漢和辞典』が、日本敗戦の因となった海軍の大艦巨砲主義に例えられていることでした。そして小さい辞典の方が役立つ場合もあり、またこれらには間違いも含まれていることを、実例を挙げて指摘しているのです。

普通は絶対気づかないような細かい点を見つけ出すのは、さすが博覧強記を誇る百目鬼先生だと思いましたが、せっかく大枚をはたいて買った大辞典なのに……と、すぐそっちの方に頭がいってしまったのは、やはり僕の人間的器量が小さいせいでしょうか(!?) 

その時は拾い読みをしたままになっていたので、今日は盆休みの一日をかけて、もう返却することも叶わぬ手沢本を、天羽さん風にチビチビやりながらゆっくり通読することにしました。その「中国の古典(Ⅰ)」に引かれる夏目漱石『文学論』の示唆に富む序文を掲げれば、漱石にも一家言をもっていた天羽さんが改めて思い出されます。

自分は少年時代に好んで漢籍をまなび、国史左漢(中国の古代史書『国語』『史記』『左伝』『漢書』のこと)を読んで、文学はこんなもんだという定義を得ることができた。が、英語は、漢籍とおなじ程度に学力をつけたつもりなのに、英文学を漢籍とおなじように味わうことができない。結局、漢文学と英文学とでは種類がちがうせいなのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

細見美術館「末法/APOCALYPSE」4

四季の柳を描く。右隻春夏、左隻秋冬なり。右隻は樹の背後に盛上げの柴垣あり。春柳の垂下するさま、夏柳の風になびくさまがすばらしい。左隻は秋柳――長い葉を垂らしている。冬柳――少し雪を被る。葉を打ち落としているが、ごく一部に青い葉が残る。三宝院を思い出させる。左隻にも柴垣あり。左...