2018年1月18日木曜日

千利休と茶の湯3


ツバキ科の常緑低木である茶の木は、中国南部の四川、貴州、雲南など、霧の多い地域の原産である。その地方では紀元前後すでに飲茶の習慣が生まれており、これが茶道の原点であるとされるが、強い反対論があるのはおもしろい。やがて唐の時代を迎えると、喫茶の風習は大いに流行し、都の長安では喫茶店が賑わいを見せ、寺院では座禅を眠気から守るために茶を飲むことが行なわれるようになったという。

そのような喫茶流行の中から、陸羽の『茶経』が誕生したのである。この風習は遣唐使によって我が国にもたらされ、奈良・平安時代を通して宮廷貴紳の間に少しずつ広まっていった。

しかしこれが特に盛んになったのは、鎌倉時代に入ってからであって、その功績は栄西に帰せられる。栄西は中国から茶種か茶苗を持ち帰ったといわれるが、その前に最澄が携えてきたようであるから、むしろ栄西は抹茶法を伝えた恩人として記憶されるべきであろう。それ以前は茶葉を団子状に固めた団茶などが中心であったから、栄西による抹茶の請来が、我が国茶の湯文化を生み、発展させたと言っても過言ではないだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブータン博士花見会4

  とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...